『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

原爆ドーム画家の死に思う

被爆体験を話す原広司先生此方より寸借

 

原爆ドームを描き続けた、画家の原広司先生が、悪性中皮腫のため4月14日に亡くなられた事を、昨日の夕方のテレビニュースで知った。

 87歳じゃった。

 

 先生は、13歳の時、原爆投下翌日の広島市内に入って被爆され、長年にわたって証言活動を続けながら、3000枚以上の原爆ドームの絵を描き、原爆の悲惨さや平和の尊さを訴えて来られたんじゃった。

 

原爆ドームの水彩画を描く原先生此方より寸借

 

 先生との出会いは、儂が、大学の2回生の頃じゃったろぉか・・・

 

 夏休みに入って帰省した折り、たまたま訪れた原爆ドームの前で、小さな折り畳みの椅子に腰かけて、黙々と絵を描いて居られる先生の、2mほど離れた斜め後方に立って、当分の間、様子を見よったら、先生が儂に気付かれて、ニッコリしながら、「君は絵を描くのが好きなんかね・・・随分前から見よったみたいじゃが・・・」と、優しく聞いてくださった。

 

「はい、子供の頃に習いに行きよった事が在りまして・・・今は描きよらんのですが・・・。それよりも、高校生の頃に、此処(原爆ドーム)へ来た時に、何度か絵を描きよられるのを見掛けた事が有ったんで、前から気になっちょったんですよ。」と、答えると、「そぉねぇ、いっつも此処へ来て描きよるけぇねぇ・・・。」と、笑いもって話してくださったんじゃった。

 

 その時に、「父や伯父の話」や、「被爆瓦を拾った話」などを話すと、先生も、御自身の被爆体験を話され、『若い人達に、反核平和の思いを引き継で欲しいという強い思い』を、優しい口調で語ってくださったんじゃった。

 

 先生の描く「原爆ドームの絵」は、純朴で、媚びる処の無い、淡々と描かれた水彩画じゃったが、当時の広島が誇ったランドマークが、如何にしてこうなり、何故に今、存在するのかが、ジワリと伝わって来る、そんな絵じゃった。

 美しい絵では無い・・・美しいと感じる絵で在ってはならない。

 

平山郁夫氏の描いた「広島生変図」や、丸木夫妻の描いた「原爆の図」の様な、強烈なインパクトは無いが、目を背けて仕舞う様な、直接表現よりも、儂には受け入れ易いし、その分、永続性が有ると思うんじゃった。

 

 前者3人の絵を見た者は、「原爆は嫌だ‼」と、強く感じさせるじゃろぉが、絵に拒否反応を覚えて仕舞う分、『自分は何を成さねばならないか?』を思考させる力には欠ける様に思うんじゃった。

 

 「原爆ドームの絵」を描き続けた、先生の目的や願いは、そこに在ったじゃろぉと感じちょるんじゃった。

 

 

五〇〇枚目の「原爆ドームの絵」此方より寸借

 

 随分前に、高校生の頃、広島平和ゼミナールの活動をしよった知人と食事をする機会があった。

 

 儂はその時、原広司先生の「原爆ドームの絵」や、先生の活動について賛美を贈ったんじゃが、

 

「あぁ、あの小学生が描いた様な原爆ドームの絵を描く人か・・・あんな下手糞な絵を見て感動する者やなんかぁ居りゃぁせんよ。・・・あれで「反核平和」が実現出来るんなら苦労はせんよぉね・・・あぁ言う人でもマスコミに取り上げられて話題になるくらい、日本は平和な国じゃと言う事じゃろぉ。」と、小馬鹿にした様に笑ぉたんじゃった。

 

 儂はムッとして、怒り心頭じゃったが、

 

「まぁ、人其々じゃけぇねぇ・・・色々な人が居るよねぇ。」と、敢えて平静を保って、言ぅたんじゃが、胸糞が悪りぃて、お気に入りの天麩羅屋で食事をしよったんじゃが、米糠を固めたのを食いよる気分じゃった。

 

 若い頃じゃったら、持論を展開して論破する処(胸倉ぐらい掴んじょったかも知れんが・・・)じゃったが、言ぅても解りそうに無い奴じゃったし、言うだけ時間も労力も無駄じゃと思ぉたし、二度と付き合う気も無い相手から、無駄に嫌われんでめぇけぇ、聞き流したんじゃった。

 

 じゃが、いつもじゃったら、年下の相手と食事をする場合、儂が勘定を払うんじゃが、キッチリ割り勘にしたんじゃった。

 

 絵心の無い共産主義者ほど、魅力の無い輩は居らんかも知れんと思ぉたんじゃった。

 

 

 世に、「反核平和運動」と言うのが在る。

 

或る者は、大弾幕を掲げて列を為してシュプレヒコールを挙げながら街を練り歩き、或る者は、核実験への抗議の為に平和公園で座り込んだり、或る者は、人々を巧みに陽動して県知事に収まったりと、人其々じゃった。

 

 法律の範囲内で、他人に迷惑を掛けずに遣る事じゃったら、誰が何をしようが好きにすりゃぁえぇと思ぉちょるんじゃが・・・

 

 

 

『無理をせんでも、自分の出来る範囲で、自分の出来る事を続けりゃぁえぇよ』と、この絵が語り掛けてくれよる様な気がするんじゃった。

 

 

原広司先生は、癌で亡くなられたとは言え、87歳の大往生じゃった。

 

 

『お疲れさまでした。有難う御座いました。』と、思いながら、原先生の冥福を祈ったんじゃった。・・・アジアの片隅より