『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

大山倍達先生の命日に思う



 今日は、国際空手道連盟総裁であり、極真会館館長 で在った、大山倍達先生の命日である。


 以前のブログ記事でも書いたんじゃが、儂は、幼少の頃から、渋川一流柔術(儂の実家の在る安芸郡坂町と関わりが深く、幼少期より、術を習得していた伯父に鍛えられていた)と言う古武道を習いよったんじゃが、これは、柔道(講道館柔道)とは異なり、柔術は、徒手、あるいは短い武器による攻防の技法を中心とした日本の武術である。


 その中でも、渋川一流柔術は、懐剣、三尺棒、刀等の仕掛けに応じる棒(三尺棒・六尺棒)、十手鎖鎌などの得物を用いる術から成り立っており、秘儀として、含針術も用いた。


 柔術は、「戦場に於いて、矢が尽き、刀折れ、丸腰となった時、如何にして身を守り、相手を倒すか?」と、言う処から発展した武術である。


 武芸十八般の中でも、剣術と共に重要視され、武士の嗜みとされ、江戸時代に於いて、各藩に、剣術指南役と共に柔術指南役が置かれた。




 一般人にも馴染み深い柔術指南役は、TBS系列の時代劇『水戸黄門』 で、藩の剣術指南役である佐々木助三郎(助さん)と共に、水戸光圀に仕える、藩の柔術指南役である渥美格之進(格さん)じゃろう。


 ドラマの中じゃと、助さんが、明るく軟派な性格で二枚目の人物であるのに対し、生真面目で堅物な格さんとして描かれており、儂が修めちょる渋川一流柔術との関わりの深い、関口新心流の達人という設定になっている。


 それを如実に現しちょるんが、ドラマの呼び物で在った、後半の殺陣シーンで、助さんが刀で戦うのに対し、格さんは素手で、相手を投げたり、関節を取ったり、打撃を加えたりして戦うんじゃった。


 柔術は、江戸時代以前に、戦国時代から合戦のための武芸である組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われていたが、柔術は江戸時代になってからの呼び名であり、戦場における組討の技術(弓・鉄砲、槍、刀剣の間合いに続く格闘における技術、敵将の首を取ることも行われた)、相撲(武士は相撲を組討のための鍛錬方法としていた)、武士の小太刀、小刀(小脇差)、脇差などでの護身術(小具足など)、治安維持のための捕手術捕縄術などが柔術の源流である。


 テレビ時代劇の「必殺仕事人シリーズ」 の影響からか、「殺人拳」と言うイメージを持っちょっての方が居られるんじゃが、厭くまでも「己の身体を守り心身の鍛錬を目的とする事」に主眼を置き、故に、積極的に相手を倒す事はせんのんじゃった。。 


 明治時代に入り、多くの柔術家が藩指南役・師範等の立場を失ったが、柔術の道場を開いたりして、一般人に伝授したり、試合や技を興行として見せる事で職を得ていた。


 その中で、加納治五郎が開いた講道館は、突きや蹴り等の打撃技や、危険な技を排除して、スポーツとして体系立てた講道館柔道が、警視庁に採用された事(警視庁柔術世話掛)と、政府の「富国強兵政策」とも相俟って、学校体育への進出により、講道館柔道が全国的に広まった様である。



 また、余談が長ぉなって仕舞ぉたねぇ(笑)



 儂は、渋川一流柔術を極める為に、小学生の頃から、柔道・剣道・居合道・槍術・弓道少林寺拳法・空手の道場に通って習得に励みよったんじゃった。



 そんな中で、小学生の頃、『週刊少年マガジン』に掲載されちょった『空手バカ一代』の影響を受け、大山倍達先生に強い憧れと畏敬の念を抱き、高校時代から空手の道場に入門したんじゃった。  


 大学に入ってからも、極真会館の道場に通ったんじゃった。


 何度か指導の為に来られた先生の御姿を遠目から拝した事が在ったんじゃが、一度だけ、僅か一分足らずでは在るが、運良く、先生から直接指導して戴く機会を得た。


 先輩の模擬的な組手の相手に選ばれただけじゃったが、一般の練習生が、先生から直接指導を受けれる事など、ほぼ皆無で、奇跡的に思えた。


 その折に、儂の腕を取って指導してくださった先生の指の堅さと圧力を、今も想い返す度に身震いがするんじゃった。



 大山倍達先生が亡くなられた後、跡目争いや、様々なスキャンダルが実しやかに語られ、極真会館が分裂し、同じ極みを目指したであろう猛者達が醜態を曝した事は、実に残念でならんのじゃった。



 極真空手での修業は、4回生の春に交通事故(武道で鍛え上げた身体じゃったけぇ一命を取り留めたんじゃが、今じゃったら即死じゃったろう)で入院して以来、中断したけぇ、二段までしか取れんかったんじゃが、『千日を以って初心とし、万日を以って極とす』と言う極真の由来は、先生の御姿と共に、今も心に刻まれちょるんじゃった。・・・暁橋のたもとから