『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

「アーカイブ」・・・8月15日・・・ぼうぶらの話

 今年もまた、暑い夏が巡って来ました ・・・。

 

 

 

 今年は、例年になく梅雨明けが遅かったのですが、梅雨明けとともに、連日の猛暑日で、年齢の所為か身体が順応出来ず、クーラーの効いた所から、クーラーの効いた所への移動を繰り返しながら凌いで居ります。

 

 

 

 

儂は、夏が大嫌いです。

 


 

しかし、『あと何年、夏を迎える事が出来るじゃろぉか?』と、ふと思う時、大嫌いな夏を、愛おしくさえ思える、不可思議な自分の存在を感じます

 

 

 

時代は「令和」へと移り、戦後74年を迎え、8月6日に纏わる、様々な世の中の動きを見聞きし、感じる事が多くなりましたが、今年は、京アニ放火殺人事件」や、吉本興業に関連した報道」が大きく取り上げられている為に 、原爆や反核平和に関連した報道などは、例年に比べると少ない様です。

 

 

 

 儂は、ここ数年、8月1日から8月15日の間は、原爆や反核平和に関連した過去のブログの記事を、アーカイブとして掲載して居ります。

 

 

 

 今年も同じ記事を、アーカイブとして予約投稿致しました。

 

 

 

 既に御購読くださった方も居られるでしょうが、亡くなった父や、早くに逝って仕舞った友人達から『託された行いの一つ』として、娘や儂の善き隣人に届けます。

 

 

 

 

【2011年8月15日 掲載記事】【7月30日・予約投稿】

 

 
 
 
 
 


 今日、8月15日は、「終戦記念日」です。
 
 
 


 とは言うものの、「終戦記念日」と言う祝日は有りませんし、国としても、正式に、「終戦記念日」と言うものを定めて居りません。
 
 


 但し、日本政府は、8月15日を戦没者を追悼し平和を祈念する日」とし、全国戦没者追悼式を主催しています。
 

 

 

 



昭和20年(1945年)8月15日、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」が朗読放送(玉音放送)されました。

 

 



この事を以て、一般的には、8月15日を、「終戦記念日」もしくは「終戦の日」としている様です。

 

 

 

 



玉音放送の原文である 「大東亞戰爭終結ノ詔書」 ⇦ 此処をクリック

 

 

 

 



玉音放送 昭和天皇 終戦の詔書 大東亜戦争終結ノ詔書 ⇦ 此処をクリック



 

 

 

全国戦没者追悼式

 

 


 父(昭和9年生まれ)は、終戦の日には、恐らく私が物心のつく以前から、必ず同じ話をしました。

 

 




 「ぼうぶらの話」です。

 

 



 広島では、カボチャの事を、「ぼうぶら」と呼びます。

 

 



 但し、戦前生まれの年配の方だけでしょうが・・・。

 

 



 父の話を、そのまま伝えますと、濃度の濃い広島弁に成りますし、非常に長く成りますので、「ぼうぶらの話」として、纏めてみました。

 

 

 

 

 「ぼうぶらの話」 

 

 

 「ぼうぶら」とは、カボチャの古い呼び名です。

 

 昭和20年8月15日(水曜日)の朝、正夫君は、お父さんに連れられて、お家の在る音戸の港から、お父さんが操縦する漁船に乗って、倉橋島の波多見と言う小さな漁港に行きました。

 

 お父さんが獲った魚を、お百姓さんの所に持って行き、米や野菜と交換して貰う為でした。

 

 戦争中の物の無い時代でしたが、正夫君の家は、お父さんが獲った魚を、お百姓さんが、米や野菜と交換して呉れるので、食べ物に困る事は有りませんでした。

 

 そして、お百姓さんも、自分が作った米や野菜と、魚を交換して貰えるので、お金を使わなくて済みますから、とても助かっていたのでした。

 港に着くと、お父さんが明け方に獲った、沢山の魚を荷車に積んで、山の麓に在る、お百姓さんの家に運んで行き、米一斗と、荷車一杯の沢山のぼうぶらと交換して貰いました。

 

 正夫君は、甘いぼうぶらの煮物が大好きでしたし、お姉さんが作って呉れる、ぼうぶらの羊羹も大好きでしたから、とても喜びました。

 

 お百姓さんの家から、港に戻った頃には、もう、お昼を過ぎて居りました。

 

 港に戻ると、先ずさきに、お父さんは、交換して貰った米を、誰にも見られない様に、舟板の下に隠しました。

 

 米は、統制品と言って、役所の許可無く取引をする事が、厳しく禁止されていたからでした。

 

 それから二人で、一個ずつ、丁寧に、カボチャを荷車から舟に運んで居りました。

 

 すると、「待て!待て!待て!・・・」と、叫びながら、5,6人の男達が、ガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の上側に駆け寄って来ました。

 

 「待った、待った。・・・あんたぁ、その、ぼうぶらを持ってく事ぁならんで・・・」と、一人の男が言いました。

 

 見ると、いつも親切にしてくれている、青年団の人達でした。

 

 しかし、皆、いきり立った表情をして、手には、天秤棒や鍬を持って構えて居ました。

 

 お父さんは、「あんた等ぁ何事かいのぉ?…このぼうぶらは、そこの△△さん方で、儂の魚と換えて貰ぉたモンなんでぇ・・・何ぃ言ぃよりんさるんの?」と、言いましたら、

 

 「そがぁな事ぁ判っちょらぁ‼・・・あんたぁ知らんのんか?・・・さっき、ラジオの放送で、天皇陛下様が、日本は、アメリカやらに降伏する言ぅて言いんさったんじゃ。・・・日本は戦争に負けたんじゃ。」

 

 「そぉじゃ!・・・じゃけぇ、どがいな事になるやら分からんけぇ、食い物を持って行かせる訳にゃぁいかんのんじゃ‼」と、別の男も言いました。

 

 お父さんは、男たちの話を黙って聞いて居ましたが、「ほぉかぁ・・・そぉ言ぅ事なら、しょぉが無ぁですのぉ・・・ぼうぶらは置いて行きますわい。」と、言いますと、男達は舟に乗り込んで、さっき運んだばかりの、ぼうぶらを取って行きました。

 

 荷車の中のぼうぶらも、持って行きました。

 

 港を見回すと、野菜などを運び出そうとしていた他の舟も、男達に捕まって、米や野菜を取り上げられていました。

 

 お父さんと正夫君は、空っぽになった舟に乗って、音戸の港に帰って行きました。

 

 正夫君は悲しくて悔しくて、舟の胴の間で体育座りをして、両膝を抱えて顔を埋め、オイオイと泣いて居りました。

 

 ふと、舟を操縦している、お父さんをチラリと見ると、ずっと黙った儘でしたが、麦藁帽子の間からジワジワと汗を流しながら、両目からも涙が流れて居るのが見えました。

 

 お父さんは、それを拭う事も無く、じっと前を向いたまま、舟を操縦していました。

 

 正夫君は、お父さんが泣くのを初めて見ました。

 

 海軍少尉だった一番上のお兄さんが戦死した時も、二人のお姉さんが空襲で死んだ時も、嘉人兄さんが原爆で死んだ時も、涙を見せた事は有りませんでした。

 

 正夫君は、見てはいけない物を見た様に思えて、余計に悲しくなって、また両膝に顔を埋めて泣いて居りました。

 

 家に帰ると、お父さんは、仏壇の前に正座すると、お母さんと妹や、お兄さん達や、お姉さん達の写真に向かって、「すまんのぉ・・・すまんかったのぉ・・。」と語りながら、一人一人の位牌をさすって居りました。

 

 正夫君が、「父さん、日本が戦争に負けたけぇ言ぅて、何でオジサン等は、儂等のぼうぶらを取って行くんじゃ。・・・そりゃぁ間違ぉちょる。・・・儂ゃぁ悔しゅぅてならんのじゃ‼」と、言いましたら、お父さんは、

 

 「えぇか、正夫!・・・あの人等を恨んじゃぁいけんど‼・・・しょぉが無ぁんじゃ・・・戦争に負ける言ぅなぁ、こぉ言ぅ事なんじゃ・・・今は辛抱せぇよ・・・辛抱していかにゃぁならんのんじゃ・・・死んだ人等のためにものぉ‼」と、正夫君の両肩をしっかりと掴んで、抱き寄せて言いました。

 

 正夫君は、その日の事を、決して忘れる事が出来ませんでした。

 

 その日から、あの日の辛い気持ちが思い出されて、耐えられなくなるので、正夫君は、ぼうぶらを食べる事が出来なく成りました。

 

 ( お し ま い )

 

 

音戸の瀬戸

 

 

 

 私は、幼い頃から、この話を、毎年、8月15日になると、父から聞かされて参りました。

 

 

 

 子供の頃から父の話を聞いて居ましたし、我が家の食卓に上った事が在りませんでしたし、食わず嫌いと言うのでしょうか、私はカボチャを食べません。

 

 

 

 子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?と、父に聞きましたら、

 

 

「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。

 

 じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それを、玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ

 

 日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。

 

 じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。

 

天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。

 

 アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。

 

 

 

 父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。

 


以前から、8月6日の「広島の原爆の日」から、8月9日長崎原爆の日8月15日の「終戦記念日」までを、「平和週刊」として休日とし、戦争や平和について学び考え、お盆でもある事から、先祖の墓参りや戦没者の供養をし、平和な世を築く礎と成ってくださった事に感謝し、「世界の恒久平和実現の為に、国民一人一人が何を為し、どう生きるべきかを考える機会とする事を望んで居ります。

 

 

 

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宮沢 賢治先生

 

 

 

 私が幼少の頃から、心の師として敬愛させて戴いて居ります、宮沢賢治先生が、「農民芸術概論綱要」の中に、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉を残されて居ります。

 


 この言葉を逆から申しますと、「不幸な個人が在るうちは世界平和とは言えない」とも申せましょうか。

 

 

 

 特定の国や個人だけが、豊かで慈愛に満ち溢れた生活をできて居たとしても、それは、真の幸福ではないと言うのです。

 

 

 これは、とても厳しく、実現不可能と思われる言葉です。

 

 

 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉は、単独で語られる事が多いのですが、この言葉の真意を掴む為には、「農民芸術概論綱要」に込めた宮澤先生の思いを理解する必要があると考えます。

 

 

 

 「農民芸術概論綱要」は、序論から結論に至る、十項目に分けられた短い文章ですが、宮澤先生が残された作品の中でも、非常に難解な作品の一つです。

 

 

 

「般若心経」の様に深遠で、これを専門に研究しておられる学者の方も居られる程で、今から85年前(1926年・大正15年又昭和元年)に表された作品ですが、愚者である私には、理解し得ない境地に在る様です。

 

 

 

 

 とは言え、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」との言葉の中に、私の求める「恒久平和の形」が有る様に思います。・ ・ ・ 暁橋のたもとから