儂が生まれた日・・・ゴムの日生まれの人々
儂の百日の宮参りの写真
5月6日は、儂の59歳の誕生日じゃった。
通年じゃと、友人とかが集まって、誕生日を祝う会を催して呉れるんじゃが、コロナ禍の現状じゃと、そぉも行かんし、儂はアルコールの類を一切飲まんし、儂の誕生日に託けて、『ハッシーと一緒なら、大酒を飲んで酔い瞑れても、素面のハッシーが介抱してくれるけぇ大丈夫』と、大酒を飲みながら3軒くらいは飲み屋を梯子する友人等に付き合わんで済むんは、気が楽じゃぁ在るんじゃが・・・。
儂は、1961年(昭和36年)5月6日(土曜日)、午前0時5分に産まれた事になっちょるんじゃが・・・。
じゃが、実は、それには色々と深い事情が在ったんじゃった。
未だ、戦後の名残が在った頃で、出産には「御産婆さん」が活躍しよった。(1948年・昭和23年に保健師助産師看護師法が施行されて、或る一定の教育を習得した者に与えられる国家資格である「助産婦」に、その業務が限られる事に成った。この制度への移行にあたっては、一定の猶予期間が設けられたが、昭和37年には御産婆さんが出産に係る事は無くなった為、儂と同年齢の方でも、御産婆さんに取り上げて貰った者の数は少なく、2歳年下の儂の妹の世代では、御産婆さんに取り上げて貰った例は、ほぼ無い)
儂が生まれる時、三日掛かりの大変な難産じゃったらしい。
5月3日の未明に産気づき、5日の夜の10時半頃に産まれたらしい。
臍の緒が首に巻き突き、産声どころか、呼吸さえして居らず、脈も無かったらしい。
死産じゃった。
御産婆をしよられた、新聞屋の空野のおばさんが、黒紫になった身体を、「済まんのぉ・・・堪えてくれんさいよ。」と、泣きながら産湯で洗ってくれたらしい。
そして、真新しい産着を着せると、泣きながら籠に寝かせてくれたんじゃそうな。
子供が産まれるのを楽しみに集まっちょった身内も、悲しみに包まれちょったらしぃ。
難産で憔悴し切っちょった母は、鳴き声を上げる力も無く、涙を流しながら、寄り添っていたアヤメ婆ちゃんの手を握り続けちょったらしい。
父を始め、男衆は、早くも葬式の段取りや日程について、相談を始めよったらしい。
零時を回り、「はぁ日も替わって夜も遅いですけぇ、気ぃ付けて帰ってつかぁさい。明日は宜しゅぅ御願いします。」と、父の言葉に促されて皆が帰りかけた時、
「フギャ・・・フギャ・・・」と、子猫が鳴く様な微かな声が聞こえた。
ギョッとして皆が注目した時、
「フギャ~ァ、フギャ~ァ・・・」と、籠の中から、闇を劈き、哀しみを吹き飛ばす様な大きな産声が上がったんじゃそぉな。(儂は未だに地声がでかい)
空野のおばさんが、「よぉ来てくれんさった。えぇ子じゃ、えぇ子じゃ・・・」と、いち早く抱き上げて、何度も何度も言いながら、顔を見せて呉れたのだと、母は、儂の誕生日の度に話して聞かせてくれたんじゃった。
大陸からの渡来人の流である土師氏は、大陸の進んだ技術と文化を持ち、大和朝廷の頃には、重責に徴用されちょったんじゃが、次第に疎んじられ排斥され、低い役職に甘んじる処と成り、或る者は陰陽師として、細々と食い繋ぐ有様じゃったらしい。
そして、奈良時代に入った頃には、土師の姓を捨て、在所の地名を姓とする氏族が出て来た。
儂の先祖は、土師氏の姓を捨て、在所で在った奈良の吉川の地名を戴いて吉川と名乗る様に成ったらしぃんじゃった。
先祖は、一縷の望みを、崇徳上皇に掛けるが、これも叶わず上皇は失脚され、崇徳上皇が四国の讃岐へ流され、その折に同行された先祖が、上皇の没後、瀬戸内海各地の宮の守として分派して行き、倉橋島に在る小さな宮の宮司を司って居るのが儂の本家と言う事に成るんじゃった。
本家では、宮を護る重責と共に、古より伝わる陰陽道を継承しちょるじゃった。
「人の命運は、両親から受け継いだ人の気と、生まれ落ちた場所から受けた地の気と、生まれ落ちた瞬間に受ける天の気に因って決まる」と、言うのが「占」の考え方である。
儂の出生届を提出する折り、「産み落とされたんは、確かに5日の日じゃが、息もしちょらん、脈さえ打っちょらんかった。6日に日が替わってから、初めて息をして産声を上げたんじゃけぇ、6日に生まれたとするんが正しかろぉ。」と、本家の長老が仰って、5月6日に産まれた事が定められたんじゃった。
この事は、後に大きな意味を持つ事に成るんじゃが、其れは又、別の話じゃ・・・。
一歳の誕生日の記念写真
儂は、鼻ぺちゃで目が細く、笑える程ブサイクじゃった。
赤ん坊と言うモノは、それだけで可愛い存在で在り、どんな赤ん坊でも、2つ3つは褒めるべき箇所が在るもんじゃが、儂には何の取り柄も無く、褒める箇所を見付ける事が出来ず、お世辞で在っても、「可愛い」と言う事が憚られる程にブサイクじゃったけぇ、唯一、色白で肌が綺麗だったので、「何と色の白い元気そうな子じゃねぇ!」と、色の白い事を褒めたらしぃんじゃが、その後に続く、「可愛い」と言う言葉は一度も聞いた事が無かったと、子守をしてくれよった従姉のお姉さんに、子供の頃、しょっちゅう聞かされよったんじゃった。
色白でペチャンコ顔の丸顔で、皆から「高尾橋の地蔵さん」と呼ばれちょった。
60年近く経った今も、この路線を爆走中です・・・トホホ😭
じゃが、そういう経緯から、『誕生日と言うのは、大変な思いをして産んでくれた母と、大変な思いをして養ってくれた父に感謝する日』と、言う思いが子供の頃から在って、今も、それが正解じゃと思ぉちょるんじゃった。
ジョージ・ティモシー・クルーニー 此方より寸借
1961年5月6日(59歳)
儂は、ジョージ・ティモシー・クルーニーと同じ日に生まれた事を、チョイチョイ、自虐ネタも含めて記事にしよるんじゃが・・・。
それにしても、儂の朋輩(ほうばい)のジョージは渋いのぉ・・・。
儂も、彼ほどの容姿が在れば、別の人生を歩んじょったかも知れんのんじゃが・・・。
半世紀余りの生涯を振り返ってみますと、後悔ばかりが目立つ人生じゃが、儂なりにもがきながら、多くの隣人と知り合い、助け支えられて参りました・・・味の在る半生じゃったと思います。
こんな儂にも、彼に優る事も在るんじゃった。
二度の結婚で、娘が1人と、3人の息子が居ります。
ジョージは、2014年9月27日に、18歳年下の、レバノン系イギリス人で弁護士・人権活動家のアマル・アラムディンと結婚して、イタリアのベネチアで挙式を行い、2017年6月にロンドンで妻のアマル・クルーニーが1男1女の双子の赤ちゃんを出産した。
「ヒト」と言う種としての儂は、彼に優って居ますが、彼の新妻 は未だ若いので、未だ出産する可能性は有るじゃろぉし、次回も双子じゃったら追い付かれて仕舞うんじゃが、彼の命の鎖を引き継いで行く子宝に恵まれる事を願ぉちょるんじゃった。(頼むけぇ、他所で作らんとってね。)
彼は、若い内から、ロマンスグレイの域に達して居りましたが、儂は、頭頂部が若干薄いモノの白髪は無く、太って居るので皺が少ない上に、脳みそが薄い所為か40代後半位にしか見られません・・・意外と若振りです。
「儂が20歳に成った誕生日からのぉ、ゴムの日じゃ言うんで、岡本理研 が、毎年コンドームを1グロス送って来るんじゃ。」と言うのが、誕生日を聞かれた時の、儂の定番ジョークじゃったんじゃが、いつの頃から指定されたのか存じませんが、本当に「ゴムの日」に指定されて居たのを知ってからは、歳の所為も在り、このジョークは使わなく成りました。
他にも、5月6日生まれ の有名人は、結構いらっしゃいます。(以下は年齢順)
1950年5月6日(70歳)
1952年5月6日(67歳)
DREAMS・COME・TRUE・ 吉田美和さん
1965年5月6日(55歳)
1971年5月6日(49歳)
1972年5月6日(48歳)
1973年5月6日(47歳)
1987年5月6日(33歳)
「風の絵師」より
連続テレビドラマ「風の絵師」では、SBS演技大賞 や第45回百想芸術大賞 TV部門 最優秀女優演技賞などを受賞し、人気・実力共に認められる様に成りました。
何かは分らんのんじゃけど、誕生日が同じじゃと言うだけで、特別な存在に感じて仕舞ぉて、何と無く応援して仕舞う気持ちになるんじゃった。
多分、誰もが、誕生日が同じ人に対しては、特別な親近感を抱くんじゃないじゃろぉか・・・。
それが全く同じ日で在ったなら、兄弟とまでは行かなくても、同じ時代を共に生きる同胞として強い共感を抱くんは、寧ろ自然な事なんじゃと思う。
故に儂は、ジョージ・ティモシー・クルーニーを朋輩と呼び、彼を心の友として愛する。
そして儂は、彼に対して希望的な観測と思いを込めて予言をする。
友人とかに真顔で話すと、笑われるんじゃが・・・。
じゃが、三流俳優じゃったロナルド・レーガンが、第21回(1948年)アカデミー主演女優賞を受賞した、妻のジェーン・ワイマンに嫉妬して離婚し、1952年に、駆け出しの女優じゃったナンシー・デイビスと再婚した時、30年後に、第40代大統領に就任するなど、誰が予想したじゃろぉか。
映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー 」の中でも、1985年の未来から来たと言うマーティに、ドクが、「では教えてくれ、未来少年。1985年のアメリカの大統領は誰だ?」と聞いたので、「ロナルド・レーガンだよ。」と答えると、ドクは呆れ返ったように、「レーガン?俳優の?では副大統領はジェリー・ルイスか?ジェーン・ワイマンがファースト・レディだな!そして、ジャック・ベニーが財務長官だ。」と、矢継ぎ早に怒鳴り付ける様に言い放つシーンが在ったんじゃが・・・。
未来と言うのは、辿り着いて振り返って見れば、必然的な結果じゃったと思える事でも、当初では想像さえ出来ん、突拍子もない結果が齎されちょるモンなんかも知れん。
10年経ちゃぁ自ずとわかる事じゃが、それまで生きちょれるかどぉかは怪しいもんなんじゃった。
それどころか、チャイナウィルスの蔓延しちょる現状じゃと、ひと月先さえ自信が無いんじゃった。
此の処、仕事でもプライベートでも、人と約束をしても守れる自信がのぉなったけぇ、月をまたぐ程の先の約束はせん事に決めちょるんじゃった。
約束を反故にするんもされるんも適わん。
コロナ禍の影響で、どれだけの約束を果たせんかった事じゃろぉ・・・誰の所為でも無いし、誰を恨む事も出来んのんじゃが、心が痛むわ。