『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

伯父の柩


旧日本海軍「加賀」とみられる船体の一部  此方より寸借



 
此の処、「台風19号の猛威や甚大な被害」とか、「ラグビーワールドカップでの日本代表チームの活躍とか、「即位の礼に関する慶報
とか、大きなニュースが続いたけぇ、ほんの少ししか報じられる事は無かったんじゃが、儂にとっては、これ等の一連のニュースよりも、強い衝撃を受けたニュースが、報じられたんじゃった。



 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)から7日(6月3日から5日とする場合もある)、ミッドウェー海戦で沈没した、旧日本海軍空母「加賀」とみられる船体の本体が、10月18日までに、北太平洋ミッドウェー環礁の水深5400メートルの海底で見つかった事を、各地で探査を続けるポールアレン財団の調査チームが発表したんじゃった。



 また、20日には、同じく、ミッドウェー海戦で沈没した空母「赤城」が、同じ海域の5280mの海底で発見された事も報じられたんじゃった。



旧日本海軍の空母「加賀」  此方より寸借




 以前のブログ記事
で、父の、海軍少尉じゃった長兄が、ミッドウェー海戦で戦死した事に触れたんじゃが、伯父が乗船しちょったんが、空母「加賀」じゃった。




 当然、儂は伯父を知らん。




 知っちょるんは、本家の仏間に飾られた伯父の遺影や、実家に在る父のアルバムに、小学生の父や家族と一緒に写った、伯父の姿を写した数枚の写真だけじゃった。



 伯父は、祖父に似て(儂の父や、次男じゃった音戸の伯父さんは、祖母に似たらしゅぅて小柄じゃった)、6尺(180㎝)を超える立派な体格で、猛者揃いの海軍兵学校でも、大柄な方じゃったらしい。


 伯父は、実家に近い呉市「広島県立呉第一中学校」を卒業後、「海軍兵学校」へ入学し、卒業後は、第二艦隊
第一航空戦隊に配属され、少尉として空母「加賀」に乗船する処と成ったらしぃ。



 そして、真珠湾攻撃
を始め、各戦地を歴戦し、1942年(昭和17年)日本時間の6月5日の夕刻、ミッドウェー沖の海中に没して行ったんじゃった。



被弾・炎上する加賀  此方より寸借



 
兎に角、父にとっても、家族にとっても、自慢の兄じゃったらしぃ・・・



 そりゃぁそうじゃろぉ・・・


 防衛大学に入学するんも、かなりの難関らしぃんじゃが・・・それの比じゃぁ無いらしぃ・・・


 当時の海軍兵学校に入るんは、今、東大の法学部に入って、司法試験に合格するよりも難しい事じゃったらしぃ・・・(父の話じゃが・・・)



 当時の男子の、
「成りたい職業ナンバーワン」は、「軍人」で、少年達の夢は、「軍人の最高位である大将に成る事」じゃったらしぃ。



 そう言う時代じゃった・・・。




 
海軍兵学校」時代、兵学校の在る江田島と、実家の在った倉橋島の音戸は、目と鼻の先ほどの距離じゃのに、盆と正月くらいしか帰省する事が許されんかったらしぃんじゃが、帰省すると、町中の人が伯父に会いに来よったらしい。


 
 
海軍に配属されてからも、連戦連勝の活躍をした、日本海軍の最大の空母「加賀」の士官であった伯父は、町の子供達の羨望の的であり、弟達には自慢の兄じゃったらしぃ。


 12人兄弟の末っ子(七女の妹がいたが、3歳の時に病死した)じゃった父とは、一回り以上も年上じゃった適齢期の伯父には、アッチコッチの分限者(資産家)の娘さんやら県議会議員の孫娘とかから、見合い話が来よったらしぃんじゃが、


 「儂の命は御国に委ねちょります。後家さんをこさえる訳にゃぁ行けんですけぇ、堪えつかぁさい。」と、笑いながら、鄭重に断りよったらしぃ。


 第二艦隊第一航空戦隊に配属されて、佐世保に発つ時、


 「何か在った時にゃぁ、海じゃぁ骨は拾えませんけぇ、此れを置いて行きますけぇ、墓に納めてつかぁさい。」と、言い残して、切った爪を煙草入れに納めて、祖父に渡して行ったらしぃ・・・


 ・・・その通りになった。



 
父が尋常小学校の2年生の夏の或る日、戦艦大和が、早瀬の瀬戸を、呉港に向かって、かなりの勢いで、しかもゴスタン(Go Astern=船艇を船尾方向に進ませる事。バック)で進みよって、船首が大破しちょるんを見たらしい。


 
 
その日の夕方、帰宅して来た祖父に、


 「父さん、今日、大和が、早瀬の瀬戸を、ゴスタンで通って行きよったんよ。舳(へさき)が、ブチめげちょったんじゃ。」と、言うと


 「おぉ、見たんか・・・あんまり、人に言ぅちゃぁいけんどぉ。戦闘で遣られたらしいんじゃが、あれだけ遣られても、大したもんじゃ‼・・・やっぱり、大和は世界一の戦艦じゃ。」
と、笑いながら言ぃよったらしぃ。



 元海軍の特務大尉で、退役後は、呉海軍工廠に勤務しちょった祖父には、大方の戦況や事情は察しがついちょったじゃろおが、多くは語れんかったんじゃろぉ。


 この時、父は、『大和は凄いのぉ・・・』と、感じながらも、子供ながらに、言い様の無い不安に包まれたらしぃんじゃが・・・。





 伯父が戦死した知らせが届いたんは、秋が深まった、丁度、今頃の時期じゃったらしぃ。




 
年末に、空母「加賀」で一緒じゃった戦友の方が訪ねて来られて、伯父の最後の様子と、遺品と成った帽子と万年筆を届けてくださったんじゃそぉな。



 
敵機からの爆撃を受けて重傷を負い、救護する間も無く亡くなったらしぃ・・・



 咄嗟に、帽子と万年筆を拾い、持ち帰ってくださったんじゃと言う事じゃった。



 
 
帽子は、祖父に渡され、万年筆は、原爆で亡くなった嘉人伯父さんに託されましたが、次男である音戸の伯父さんに継がれる処と成ったんじゃった。




ミッドウェー島の海  此方より寸借




 ミッドウェー海戦から77年余りが過ぎた・・・。


 
 
現在、ミッドウェイ島は、ミッドウェー環礁国立自然保護区として、一般の立ち入りは禁止されちょるらしぃ・・・


 島内に、ミッドウェー海戦の慰霊碑がある関係から、日本の海上自衛隊の艦船が立ち寄る事が在るらしぃ・・・。




 島を取り巻く海溝の、5千メートルを超える深い海の底に、空母「加賀」と共に英霊達は眠る・・・。




 現代のサルベージ技術をもってしても、叶わんじゃろぉ・・・




 それに、莫大な費用を投じる事に、どんな意味が有るじゃろぉ・・・




 誰某かの自己満足に過ぎんじゃろぉ・・・



 英霊の御霊の安寧を願う事なら、儂の部屋の仏壇の前で手を合わせる事でも叶う。



 先日、行われた「即位礼正殿の儀」のお言葉で、「国民の叡智とたゆみない努力によって 我が国が一層の発展を遂げ 国際社会の友好と平和 人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」と、今上天皇陛下が、宣べてくださった。



 一人一人が、御言葉に思いを寄せて、日々を歩む事が、国の為に命をとした英霊達の思いに報いる事に繋がるじゃろぉと、儂は思ぉちょる。



 遠い南の島の海の底に思いを馳せながら、仏壇に向こぉて、そっと手を合わせたんじゃった。・・・アジアの片隅より