『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

子供等に伝えるべき『父の恋バナ』・・・⑤

イメージ画像  此方から寸借



 儂は、週一ぐらいのペースで、「スナックK」へ通いよったじゃろぉか・・・。



 酒が好きな者にしてみりゃぁ、そぉ、多いぃペースじゃぁ無いかも知れんが、酒を一滴も飲まん儂にすりゃぁ、チョッと異常な行動じゃったかも知れん。



 それまでは、会社の忘年会の時とか、友人から酒を飲まん儂がタクシー代わりに呼び出された時とかぐらいしか、夜の街に出る事は無かったんじゃった。



 精々、年に数回ぐらいじゃったじゃろぉか・・・。



 儂は、妻が亡くなってからは、西区井口明神に在ったマンションを売り払ぉて、実家に戻って、両親と三人で暮らしよった。



 儂が、結婚しちょった事も、妻が亡くなった事も、知っちょる者は会社には居らんかった・・・入社した時の直属の上司じゃった、M主任だけじゃったじゃろぉか・・・。



 以前のブログ記事でも話した様に、妻とは駆け落ちをして結婚した為、入籍はしちょらんこぉじゃったんじゃった。



 妻が、義父母に認めて貰えるまでは、入籍したくないと望んだけぇじゃった。



 入社した時、上八丁堀駐車場(嘗て、広島高等裁判所合同庁舎の間の道路脇の側道沿いに在った)と言う路上駐車場(駐車場不足を訴える市民からの要望に応えて、広島市が、平和大通りなど、比較的幅に余裕の在る市道に線を引いて、駐車場として、善良な市民から高額な駐車料金を徴収する、広島市の闇の部分なんじゃった)に配属されたんじゃが、当時の路上駐車場駐は全て有人で、駐車場の中央にある小さなボックス型の事務所に職員が居り、午前9時から午後10時までの13時間の隔日勤務じゃった。



 管理台数の多い駐車場は2人勤務で営業し、45台の駐車スペースが在る上八丁堀駐車場は、2人勤務の駐車場じゃった。



 僅か3畳程のボックスの中で、13時間を共に過ごすんじゃが・・・余程、相手と馬が合わんと、大変なストレスに成る。(中にゃぁ、殴り合いに成った職員も居った) 



 M主任は、ジャズ鑑賞が趣味の、お洒落なオジサンで、大型バイクに乗って通勤しよられたんじゃった。 



 M主任とは、趣味が同じと言う事も在り、可愛がって戴き、大変お世話に成ったんじゃった。



 入社した時、M主任に儂の身の上を話したら、


 「うちの職員は、暇人ばっかりで、興味本位で話をする者が多いぃけぇ、奥さんの事とかは、他の者にゃぁ話さん方がえぇで・・・彼是、面白がって聞かれて面倒臭いだけじゃけぇ。それに、扶養手当が附く訳でも無いんじゃけぇ・・・。」と、アドバイスしてくださったんじゃった。


 このアドバイスの通りにしたら、煩わしい質問攻めに遭う事も無く、自然と仕事や職場に馴染めて行ったんじゃった。


 尤も、市営駐車場の本部事務所が在った、市営基町駐車場に、出勤前に業務用の鞄(釣銭や日誌等が入って居た)を取りに行き、終業後に売り上げを鞄に入れて帰るだけじゃったけぇ、他の職員と顔を合わす事はすくなかったんじゃが・・・。



 これも、以前のブログ記事で書いた事じゃが、入社して間も無く、妻が癌に侵され、京都の宇治の実家に、娘を連れて戻って治療に専念し始めてからも、休日の多い勤務体系じゃった御蔭で、月に2回は、見舞いに行く事が出来たんじゃった。



 妻が亡くなった時は、「学生時代の友人が亡くなったので・・・と、言って、年休を取って休んだんじゃった。



 給料も安かったんじゃが、その分『緩い会社』で、民間委託されたんも致し方ない事じゃったと思うんじゃが、週休二日制の適用の関係で、「指定休」と呼ばれる休日が月に2回程在って、隔日勤務の為、3連休と成り、実質、月に13日ほどの勤務じゃったけぇ、実家の漁業の手伝いも随分出来て、両親を助ける事が出来たんじゃった。



 また、余談が長ぉ成って仕舞ぉたねぇ・・・(笑)



いつも飲んでいたウーロン茶  此方より寸借



 儂は、「スナックK」へ通いながら、カウンターの隅っこでウーロン茶をチビチビ遣りながら、「憩の時」を過ごしよった。



 ママの人柄の所為じゃろぉ、「スナックK」の御客さんは、品の良い方ばかりじゃったし、酔って管を巻行いて、店の雰囲気を壊し、他の客に迷惑を掛ける様な者を一度も見た事が無かったんじゃった。



 皆、和気藹々として楽しく語らいながら酒を飲み、楽しく歌って時を過ごした。(下品な儂さえ、中品くらいには取り繕って猫を被っちょった)



 酒を飲まん客は儂だけじゃったろぉが、元々が赤ら顔で、大き目の声で、純度の高い広島弁で陽気に話す儂を見て、ウーロン茶を飲みよると思ぉちょった客は居らんかったじゃろぉし、皆は儂がウーロンハイを飲みよると思ぉちょったみたいじゃった。



 通いよる内に、「レイちゃん」の事も随分わかってきた。


 広島市内の商業高校を卒業してから、薬局の事務員として働きよったんじゃが、22歳の時に、何故か「日光江戸村」の職員募集に応募して、採用されて働きよったんじゃが、2年ほど前に、母親が体調を崩されたのを期に広島に戻って、また、薬局の事務員として働きはじめ、「スナックK」が開店した時に、週末だけアルバイトとして働く様になったらしい。


 元は、直方市の出身で、兄弟は無く、父親の仕事の関係で広島に来たらしいんじゃが、小学生の時に両親が離婚し、以後、母親が女手一つで育て、ずっと二人で暮らしちょるらしぃんじゃった。


 確かに、容姿も声も、亡くなった妻に似ちょりゃぁしたんじゃが、亡くなった妻と比べたら随分小柄(ごく普通なだけじゃが・・・)じゃと言う事だけじゃのぉて、丸っ切り違うタイプの女性じゃった。(当然の事なんじゃけど・・・)



 亡くなった妻は、鎌倉時代地頭の家柄で、安土桃山時から茶の栽培と茶舗を営みだしたらしい)から続く旧家で在り、茶舗自体は、老舗が連なる宇治では小さいんじゃが、相当な資産が在り、義祖父も義父も京大卒で、義母は京都の地方財閥の娘で在り、敬虔なクリスチャンで在った義祖母に、教会の日曜礼拝で度々逢う内に見初められ、女学校在学中に義父と見合いをして、その席で結婚式の日取りが定められ、女学校を卒業して間も無く、義父と結婚したらしい。(義母が妻を産んだのは20才の時じゃった)


 いとさん(長女)として、厳格な基督教徒である義母に育てられた妻は、小学生の時から、義母も通った京都に在るミッション系の学校に通い、自らも敬虔な基督教徒じゃったし、お嬢様育ちで悪意が無い分、世間離れした所が在ったが、意志が極めて強く、頑固で融通が利かない所が在って、常に自分の考えや行いが正しいと自信を持って居て、儂からの、どんなに些細な事にも、「ありがとう」と、ありったけの感謝と心を示してくれたんじゃが、「ごめんなさい」と言われた事は、一度も無かったんじゃった。 



 レイちゃんは、直方市の生れじゃが、義母は、炭鉱の測量技師じゃった義祖父の次女として生まれ、当時の炭鉱の測量技師は「先生」呼ばれ、相当な給料を貰い、大変に羽振りが良かったらしい。


 如何せん亭主関白な九州人で、収入が多い分、女遊びも盛んじゃったみたいで、義母の「緑」と言う名前も、当時、贔屓にしちょった美人芸者の本名を名付けたと言うぐらいじゃったけぇ、その人間性が伺われるんじゃった。


 炭鉱関係の会社で働きよった義父と恋仲になって、レイちゃんを身籠ったので結婚し所帯を持ったが、炭鉱の仕事が斜陽と成り、義父の知人のコネクションで、「マツダ」の前身である「東洋工業」に職を得て、未だレイちゃんが幼児じゃった頃、広島に移り住んだらしいぃんじゃった。


 義父は、山口県の漁師の息子として生まれ育ち、酒好きの上に酒乱であり、気に入らない事が有ると義母に暴力を奮っていたらしい・・・。
 
 
 人と上手くコミュニケーションをとるのが苦手なタイプであり、数年は東洋工業で働いたらしぃが、上司が気に食わないと言って辞め、その後も職を転々としたらしぃ・・・


 必然的に、義母が働いて家計を支えたが、再三に亘る暴力に耐えかね離婚・・・義父は故郷の山口に帰り、西区に在る安アパートへ移り住み、母娘の暮らしが続いていたらしぃんじゃった。


 幼い頃から母親を助けて家事全般を熟し、店では、表面的には明るく振舞いよったが、根は大人しい性格で、スナックの仕事には似付かわしくない女性じゃったが、もっと綺麗で広いマンションに移り住みたいとの希望を持っちょって、薬局の事務の収入だけじゃと、余裕が出来んけぇ、「スナックK」のアルバイトに来よるらしぃんじゃった。



 「健気な女性」と言う表現が、ピッタリと嵌る気がしちょったんじゃった。



 「亡くなった妻に似ている」と、言う事じゃ無しに、「娘に伝える、父の恋バナ『高校編1』」 で話した、儂の初恋の女性である「정희・ジョンヒ・貞熙」亡くなった妻レイちゃんも、よぉ似た容姿をしちょる。



 もっと付け加えたら、儂が学生時代に付き合いよった、イギリスからの留学生・エレナも、儂が高雄市にい居った頃、大変に御世話に成った、台湾料理の師匠でもある劉さんの姪じゃった郁雯(ユーウェン)も、色白で細身の、やはり似た容姿の女性じゃった。



 儂には、確固たる理想とする女性の容姿が在って、その範疇に値せん女性には、魅かれない傾向が極めて強いんじゃった。



 「じゃぁ、自分を鏡で見てみろ‼」と、叱られそぉじゃが、ブログ記事「山ちゃんの結婚に父の友を思う 」で話した、父の友人じゃった、朴さんの「不細工が不細工な嫁を貰ぉたら、子供はどぉするか‼」と、言う言葉も在るけぇ、御許し願いたい処なんじゃが・・・。



「ホタルの庭で」小暮はな / Jardim dos Pirilampos - Hana Kogure



 じゃが、一番、魅かれるんは、容姿よりも女性の声で、儂が良く言う、「オカリナの様な余韻の有る声」に、魂を揺さぶられる程、感じるんじゃった。



 此れは、声の質や高さの事じゃのぉて、『声にオカリナの様な余韻の有る響きが在る事』が重要で、以前のブログ記事で、儂が幼少の頃から、ジュディ・オング (台湾名:翁倩玉)の大ファンじゃと言う事を書いたんじゃが、彼女の声が、儂の言う、「オカリナの様な余韻の有る声」なんじゃった。
 
 
 また、昨年のブログ記事「儂がブログを始めた切っ掛け・・・「小暮はな」と言う歌手」で紹介させて戴いた、歌手の小暮はなさんが、「オカリナの様な余韻の有る声」なんじゃった。



 じゃけぇ、「スナックK」のカウンターの隅っこで、ウーロン茶をチビチビ遣りながら、他愛も無い話をしぃしぃ、聞えて来る彼女の会話や笑い声、時たまオジサン方の要望に応えて歌う彼女の歌声を聴きよるだけで、結構、癒されよったんじゃった。



 『いい子じゃのぉ・・・』たぁ思いよりゃぁしたんじゃが、その頃は、妻との思い出や娘への思いも強かったし、それ以上の思いを抱く事も無しに、カウンターの隅っこで、ウーロン茶をチビチビ遣りよったんじゃった。・・・アジアの片隅より