『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

子供等に伝えるべき『父の恋バナ』・・・⑦

※ PC設定の不具合により、一日遅れの投稿と成りましたので御了承ください。


昨日の宇品界隈



 昨日の朝の広島の空は、昨日の夕方から降り始めた雨が、シトシトと降り続いちょった。



 一昨日(12月25日)は、亡くなった妻の29回目の命日じゃったけぇ、24日の朝から、昨日の夕方までの予定で、長男を短期入所の施設へ預けて、亡くなった妻の実家が在る、京都の宇治へ行っちょったんじゃった。



 24日は、昼過ぎに京都へ着いて、時間に余裕が在ったたけぇ、京都駅ビルを散策したんじゃった。



 実は、1997年(平成9年)9月に、京都駅がグランドオープンしてから、20年余りになるんじゃが、妻が亡くなってから、命日には、大抵は新幹線を利用して京都に訪れるし、それ以外にも、年に2~3回は京都へ来るんじゃが、一度もユックリと見て回った事が無いし、買い物さえした事もなかったんじゃった。



 今更ながらに、広いんで驚いたんじゃが、娘の話じゃと、去年も大規模な改装工事が行われたらしぃんじゃが、何処がどぉ変わったんかも儂には分らんし、抑々、学生時代や、妻が生きちょった頃も、新幹線を利用する為だけの目的でしか来た事が無いけぇ、元々のイメージさえ無いんじゃった。



京都駅ビルのクリスマスツリー  此方より寸借



 ビルの中央のホールには、大きなクリスマスツリーが煌びやかに飾り付けられちょったし、構内や店舗も、クリスマス用の装飾が施されちょった。



 皆、にこやかな表情ですれ違ぉて行くんじゃが、こっちは妻の命日の墓参りに来ちょるんじゃけぇ、そがいな気持ちにゃぁ成れんのんじゃった。



 広すぎて、足の不自由な儂には不向きな場所じゃし、様々なブランド品を売る店や、色々な飲食店が犇めき合ぉちょったが、パニック障害の影響で独り飯が出来ん儂は、何か食べようかと言う気にも成らんし、抑々、大勢の人混みが苦手じゃけぇ、早々に退散して、改札口を通って、奈良線の在る10番ホームへ向かったんじゃった。



 タイミング良く、奈良行きの列車が来たけぇ、すぐに乗り込んだ。



 実は、亡くなった妻の実家へ行くんじゃったら、JR奈良線小倉駅で下車するよりも、近鉄京都線小倉駅で降りる方が、だいぶ近いんじゃけど、儂は近鉄線に乗り換える方法を知らんけぇ、いつもJRを利用するんじゃった。



 以前は、歩いて行きよったんじゃが、足を悪ぅしてからは、専らタクシーを利用するんじゃが・・・逆に、近鉄京都線小倉駅からじゃと、近すぎてタクシーを頼み難いと言う事も在るんじゃった。



 



 時々、ブログ記事でも触れる話じゃが、亡くなった妻の実家は、茶の栽培と小さな茶舗を営んでいる。



 亡くなった妻と結婚した頃は、何箇所も茶畑を所有して栽培されちょったんじゃが、時代の流れじゃろぉか・・・昔からの使用人の方が高齢の為に引退して行くのに合わせて、規模を縮小し、親戚の茶園に貸したり、賃貸マンションにしたり、更地にして企業に貸し出したりして、茶舗は、先祖供養と趣味的な感じで運営されよる感じなんじゃが・・・。



 久し振りに逢ぉた義父は、今年の春、喜寿(77歳・1942年・昭和17年生まれ)を迎えた。



 義母は、義父より3歳ほど年下じゃったと思うんじゃが、定かじゃぁ無い。


 20歳の時に亡くなった妻を産んだと言う話じゃったけぇ、そのぐらいじゃろぉと思う・・・。



 結婚した時は、猛反対され、若気の至りで駆け落ちをして広島に逃れて、周りのあらゆる人等に不義理をし、大迷惑を掛けたんじゃが、今は、実の息子の様に接してくださる・・・有難いことじゃ・・・。



 娘が帰宅してから、19時から教会で行われるミサに、娘と義母(代々、曹洞宗門徒である義父は参列しない)と、義妹夫婦と共に参列し、帰宅してから、儂が土産に持って行った牡蛎で、土手鍋や焼き牡蠣や、牡蛎フライや牡蛎グラタンを作って、皆に振舞った。



 翌日の25日の朝は、皆で亡くなった妻の墓参りへ行き、毎年の様に、儂が修行をしていた頃から御付き合いの在る老舗料亭で、精進落としも兼ねて会食をした後、その場で別れて、儂はタクシーで京都駅へ行き、娘達は家に帰って行ったんじゃった。



 去年は、息子を預かって戴く施設や儂の仕事の関係で、12月25日に日帰りをしたんじゃが、例年は、粗、これと同じスケジュールを繰り返して来たんじゃった。



 墓参りをした時、義父が、「土師はん、よぉ来たってくれはりましたなぁ・・・来年で30年になるんやなぁ。・・・来年も来んのかいなぁ・・・?」と、聞かれたけぇ



 「はい、30年ですから・・・。」と、答えると



 「そぉか・・・そぉやなぁ・・・でもな、命日に御参りに来るんは、来年で最後にすんにゃでぇ・・・年末の忙しい時期やさかいなぁ・・・あんたは料理人をしてんのやから、余計やろ。・・・色々と無理して来とんのやろぉし、後から出来た子供さん等の事も在るやろぉしなぁ・・・前にも言ぅた事やけど、命日に来んのは、来年で最後にしぃや。」と、穏やかに仰った。



 「はぁ・・・。」と、弱ぉぅに答えたんじゃが、儂も、そぉさして貰う積りで居ったんじゃった。



教会の主日ミサ  此方より寸借  



 抑々、キリスト教には、日本の仏教や神道の様な、「命日」と言う概念が無いらしぃんじゃった。


 「死後、この世の肉体は朽ち果て、魂は天で神と共にあるので、残った者達は、全てを神に委ね、死者の平穏を祈る」と言う考え方らしぃんじゃが・・・。


 じゃけぇ、墓前で線香を焚いたり、お供え物やなんかはせんのじゃった。


 亡くなった日付けは、家族達の記憶として残り、家族は墓前に花を飾るし、毎週、教会での礼拝の時に、死者の安寧を願って祈りをささげるし、日々、何かに付けて思い出しては祈りをささげると言うんが、キリスト教徒の「供養の形」らしぃんじゃが、仏教徒で在り神道の氏子である儂にゃぁよぉ解らんし、儂が抱いちょる認識が違ぉちょるかも知れんのんじゃが、その場合は鷹揚な心で御許し願いたい。


 教会には、仏教のお寺の過去帳の様に、永久に記録が残るらしゅぅて、毎週の礼拝の時、その週に、過去に亡くなられた人の名前を読み上げて、コミュニティとして、その人の一生を神に感謝し、その魂の平穏を祈るんじゃった。


 日本のキリスト教には、キリスト教の教義に反しない程度に、日本の風習に寄せちょる部分も在るみたいじゃし、30回忌と言う事には、特別な拘りや意味合いもある様で、死後30年に当たっては、特別な礼拝も在るらしぃんじゃった。 


 まぁ、儂ゃぁよぉ知らん事で、定かじゃぁ無いんじゃが・・・。



昨日の宇品界隈



 12月25日の夕方の6時過ぎに、広島に着いたんじゃが、空はどんよりと曇って真っ暗で、小さな雨がポツポツと落ち始めちょった。(京都は春を思わせる様な、ポカポカの晴天じゃった)



 『雨か・・・』と、思いながら、宇品行きの路面電車に乗って、段々と雨が強まって行く景色を眺めながら、昔の事を彼是と思い出しながら、妙な期待と不安が湧いて来るんを感じよったんじゃった。



 いつも言いよる事じゃが、『儂の人生の中で、重要な分岐点に成る日には必ず雨が降る』と、言うジンクスが在るんじゃが・・・。



 雨降りが嫌いと言う訳じゃぁ無いし、雨男と言う事でも無いんじゃけど、振り返ってみると、何故か大切な日には、雨が降りよった様な気がするんじゃった。



 亡くなった妻との交際を認めて貰う為に、初めて妻の実家を訪れた日(1987年・昭和62年8月23日)もそうじゃった・・・その日、玄関先で義母にボロカスに罵られて追い返されたんじゃが、儂を追い掛けて来た妻と、そのまま雨の降る中、オンボロの儂の車で、広島に向けて駆け落ちしたんじゃった。 



 亡くなった妻との結婚式を挙げた、1987年(昭和62年)9月6日も雨じゃった。



 もっと昔の事を言やぁ、儂の初恋の女性であるジョンヒに振られて、人生初の失恋をした日も雨じゃったし、他にも、多くの人生の節目節目には、雨が降りよった様な気がするんじゃった。



 あの日、1993年(平成5年)9月14日も、前日からの雨が降り続く、ぐずついた日和じゃった。



 その日は非番の日で、天気が悪いけぇ、実家の二階に在った儂の部屋で、のんびりと過ごしよった。



 昼前じゃったじゃろぉか、一階の玄関の靴箱の上に在った電話が鳴ったけぇ、急いで駆け下りて行って、受話器を取ったんじゃった。



 その瞬間から、『人生最大の大変な一日』が始まったんじゃった。・・・アジアの片隅より