『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

昭和天皇を偲ぶ


昭和天皇陛下1928年・昭和3年即位の礼に際して  此方より寸借



 今日、「昭和の日」は、昭和天皇が、(1901年・明治34年)4月29日に降誕された日であり、1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇崩御を受け、葉山御用邸において践祚して第124代天皇に即位され、昭和と改元、戦前の天皇誕生日「天長節」として呼ばれる祝日じゃった。。


 戦後(国民の祝日に関する法律祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)、「天皇誕生日」の祝日とされていたが、崩御された1989年に「みどりの日」昭和天皇が植物学者だったことに由来する)として新たな祝日となったが、2007年には「昭和の日」と改められ、「みどりの日」は5月4日となったんじゃった。

 

 

1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法に署名される陛下 此方より寸借


 この世に生を受けた時から、「現人神・あらひとがみ」として崇められ、25歳の若さで天皇に即位され、首都東京を襲った「関東大震災」を経て、太平洋戦争での敗戦・・・。


 大日本帝国憲法における大権を保持し「大元帥」とされた天皇と、日本国憲法に定められた象徴天皇の両方を経験した唯一無二の存在となられた。
 
 
 戦後、「象徴天皇」として、常に国の安寧と、国民一人一人の幸福を祈り願いつつ歩まれ、1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)のため崩御され、宝算87歳、在位63年の尊い生涯で在った。




 随分前に、「ラストエンペラー」と言う、支那(中国)の最後の皇帝で在り、満州国の皇帝でも在った、愛新覚羅溥儀を題材とした映画を見た事が在る。


 当時、大変話題となり、主演したジョン・ローンの存在感が素晴らしく、多くの映画を鑑賞して来た中でも、心に残る映画の一つじゃった。
 
 
 大ヒットしたし、社会現象とも言えるブームになったんじゃが・・・


満洲国皇帝時代の溥儀  此方より寸借


 愛新覚羅溥儀は、非常に数奇な運命を辿った「悲劇の皇帝」とも言われるんじゃが、・・・ 儂の目には、「運命に翻弄され、流されて行った不幸な人」としか映らんのんじゃった。


 じゃが、昭和天皇は、運命を全身で受け止められて、「象徴天皇」としての有り様を模索される中で、「大御心」を示してくださり、大いなる慈愛で、何時如何なる時も、我々国民一人一人に寄り添ってくださり、常に国の安寧と、国民一人一人の幸福を祈ってくださった。


 真に尊い方であったし、それ故に、誰からも尊ばれ、愛されたのだと、儂は今更ながらに偲ばれるんじゃった。


溥傑と浩の結婚写真  此方より寸借


 余談じゃぁ有るが、儂にとっては、西洋では有名な愛新覚羅溥儀よりも、弟の愛新覚羅溥傑氏の方が馴染み深いんじゃった。


 儂は、幼少の頃から、書道に勤しんじょった関係で、書の大家として崇められちょった愛新覚羅家に憧れにも似た敬意を抱いちょった。


 また、溥傑氏は、侯爵嵯峨家(公家華族)の長女である嵯峨浩を妻とし、長女である愛新覚羅慧生と、次女である嫮生(福永嫮生)の二人の娘に恵まれ、残念ながら姉の嫮生は、「天城山心中」により、若くして亡くなった。


晩年の溥傑と浩(北京にて) 此方より寸借


 1960年に模範囚として釈放され、北京に帰り、翌1961年、妻の浩との再会を果たし文化大革命を乗り越え、全国人民代表大会常務委員会委員を務めるなど、社会への復帰を果たし、1972年の日中国交正常化の後に7回の訪日で、日中友好の懸け橋として活躍されたんじゃった。
 

 1987年6月20日に、長年連れ添った妻の浩が北京の病院で死去された後も、溥傑氏は、日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1992年10月25日には、在中国日本大使主催のレセプションで、訪中した今上天皇と対面されたんじゃった。


 1993年から療養していたが、1994年2月28日7時55分に北京で死去した。


 遺骨は不潔の生前からの希望によって浩・慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、中国側の遺骨は、三人共に中国妙峰山上空より散骨され、日本側の遺骨は、山口県下関市中山神社(浩の曾祖父である中山忠光が祀られている)境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められたんじゃった。


 この一組の御夫婦の辿られた軌跡を想うと、目頭が熱ぅなるんじゃった。


 この御夫婦の存在と助力が無かったら、円滑な日中友好は為し得んかったかも知れんと、儂は思うんじゃった。・・・支那(中国)の国策も在るじゃろぉが、こうした外交のキーマンが居らん事も、昨今、日中関係が良好に行かん要因じゃと思うんじゃが・・・。


昭和63年(1988年)5月19日、赤坂御苑にて  此方より寸借


 儂は、2011年の終戦の日によせて、『8月15日・・・ぼうぶらの話 』と、言うブログ記事を書いた事が在る。



 ・・・『8月15日・・・ぼうぶらの話 』より・・・ 



 子供の頃、「戦争に負けたのに、何で敗戦記念日じゃ無ぉて終戦記念日なんかねぇ?」と、父に聞きましたら、


 「日本はのぉ、本土決戦言ぅて、日本の国でアメリカやらを迎え打って戦う心算じゃったんよ。

 じゃが、それをしたら、大勢の日本人が死ぬ事に成るし、相手の国の兵隊さんも死ぬ事に成るけぇ、それを天皇陛下様が御望みに成りんさらんかったけぇ、ポツダム宣言 ゆぅアメリカやらの言ぅ事を受け入れて、戦争を終わらして、それを、玉音放送 言ぅて、自分の言葉で国民全員に戦争の終わりを知らして呉れんさったんよ。

 日本は、戦争に負けそうなかったが、負けた訳じゃぁ無ぁんで、・・・あのまま、本土決戦に持ち込んじょったら、若しかしたら、アメリカやらも諦めて、戦争が終っちょったかも知れん。

 じゃが、大勢の日本人や敵国の兵隊が死んじょったじゃろおて・・・お父さんも死んじょって、アンタ等も産まれちょらんかも知れん。

 天皇陛下様は、国民だけじゃぁ無ぉて、敵国の兵隊の命も守ってくださったんじゃ。

 アンタ等の命ものぉ・・・それに、産まれて来たアメリカやらの子供等の命もじゃ。」と、話して呉れました。

 父の話は、史実と多少異なる部分は在りますが、当時、小学生だった私には解り易く、今も大筋では此れが真実だと考えて居りますし、右翼思想の持ち主では在りませんが、昭和天皇に大恩を抱いて居りますし、今上天皇陛下を御尊敬申し上げて居ります。

・・・以上、『8月15日・・・ぼうぶらの話 』より・・・ 



 今日と明日で、『平成』の御代が終わり、『令和』へと移ろうとして居る今、昭和天皇陛下や、昭和の頃へ思いを馳せて仕舞うんじゃった。・・・アジアの片隅より