『祈昌の世迷言』・・・アジアの片隅より

離島と本土を繋ぐ日本最小の『暁橋』のたもとから、娘と善き隣人に届けます。

シンディとの誕生日に時を思う

シンディ・ローパー(Cyndi Lauper・1953年6月22日) 此方より寸借



 今日、6月22日は、儂が最も愛するアーティスト、シンディ・ローパー(Cyndi Lauper)異、シンシア・アン・ステファニー・ローパー(Cynthia Ann Stephanie Lauper)の65歳の誕生日です。



 1983年に『シーズ・ソー・アンユージュアル』でソロ・デビューし、1984年、ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がヒット・チャートに急上昇して第2位に輝き、セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は全米第1位になり、サードシングルの「シー・バップ」は第3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。



 シンディーは30歳・・・遅咲きの花と言える・・・紆余曲折の辛い道程を辿って来た所為じゃろぉ・・・。



 代表曲の「タイム・アフター・タイム」マイルス・デイヴィスを始め、多くのアーチストからカヴァーされるスタンダードとなっている。



 日本通・日本贔屓のアーチストとしても知られ、阪神・淡路大震災の被災者へ寄付を行って呉れ、1996年2月3日には、阪神・淡路大震災のチャリティーとして行われた生田神社震災復興節分祭の「豆まき神事」にも参加した。



 東日本大震災が発生した2011年(平成23年)3月11日に、コンサートの為に来日しており、多くの海外アーチストがコンサートを中止して帰国する中で、コンサートを予定通り決行し、3月16日の来日コンサート終了後、急遽、観覧しに来ていた日本の芸能人とともに、募金箱を持ちコンサートの観客に募金を募ってくれたんじゃった。



 帰国してからも、日本の現状・窮状を伝え、日本に対する支援や募金などの助力を求め、世界へ向けて配信して呉れた。 

 多くの人々が、どれほど勇気づけられたじゃろぉか・・・どれほど多くの人々が、彼女の言葉に心を動かされ、支援の手を差し伸べてくれた事じゃろぉ・・・有難い。



 アメリカ人で在りながら、日本ツアーの際、「被爆地広島」で、ツアーをスタートしてくれたんじゃった。



 儂もライブに参加させて貰ぉて、大きな感動と興奮を戴いたんじゃった。



 1990年のNHK紅白歌合戦に出演している他、日本の歌番組やバラエティー番組にさえ出演している。



 若し、シンディーが、広島駅そばの大須賀の焼き鳥屋のカウンターの隅で、ツクネを齧りながら酎ハイを飲みよるんに出くわしたとしたら、ビックリはするじゃろぉが、全然、意外には思わんじゃろぉと思うんじゃった。


 シンディーは、世界的なセレブじゃのに、温かな親しみの在る優しさと「気風の良い姉御」と言う雰囲気を醸し出している。



 再婚して、44歳の時に、待望の息子を出産した事も、女性としての、彼女の力強い生き様を感じるんじゃった。



 そんなシンディーも65歳かぁ・・・ 



 そりゃぁ、儂も、ジジイになるわいのぉ・・・55歳を過ぎてから、自分の事を「儂」と表記し始めた男。


「Time After Time」より  此方より寸借



 シンディとの出会いは、大学の4回生の時(1983年)・・・交通事故で入院しちょった時の事じゃった。



 5月21日(土曜日)の夜、京都市内の交差点を直進中、材木運搬用の大型トレーラーが、在り得んタイミングで右折して来て、儂の前を走っちょった乗用車の後部を跳ね飛ばして横転させ、逃げ場の無い儂は、一瞬、ハンドルを右に切った(正面衝突を避ける為・正面衝突して轢かれちょったら即死じゃったじゃろう)が避けれる筈も無く、トレーラーヘッドの鳥居部の鉄筋に直撃し、その勢いでバイクごとトレーラーの車体を乗り越えて10m余り吹っ飛んで道路に投げ出された・・・


 儂の後ろを走っちょった軽乗用車のオジサンは、トレーラーの荷台に衝突して軽乗用車は跳ね飛ばされて、オジサンは内臓破裂の重症を負った。



 それでも、大型トレーラーは走り去り、間もなく逮捕されたんじゃが、「知らん・・・覚えてへん。」と、言い張ったらしい。・・・それだけ泥酔しちょったと言う事じゃろぉか⁈・・・。



 儂のヘルメットは砕け、頭がい骨骨折・左大腿骨骨折・左眼球破裂・左手甲部粉砕骨折etc.・・・全身各所に打撲や擦過傷を負い病院に搬送される・・・。



 病院に担ぎ込まれたが、一時心肺停止状態になる・・・医師達の懸命の努力で蘇生したが、意識は回復せんかった。 



 事故の報を聞きつけて、事故現場に駆け付けた友人達は、事故の惨状を見て、「ハッシーが死んだ‼・・・」と、泣き崩れたらしぃ・・・
 

 それに追い打ちを掛ける様に、野次馬の中のオッチャンが、「あんた等、あの兄ちゃんの友達か?・・・可哀そうになぁ・・・即死とちゃうか・・・さっき救急車で運ばれてったわ。」と、話したらしい。



 儂が意識を取り戻したんは、7日後の日曜日の未明じゃった。



 目を開けたら、薄暗い病室の天井がボンヤリと見えた・・・



 何と無く、ボヤッとした意識の中で、状況の流れから、病室で在る事だけは分った。



 体中の彼方此方に痛みが走る・・・動けん。



 頸椎も損傷しちょったけぇ、頭が変な鉄枠の器具で固定されちょった・・・骨折した左手と左足も、動かん様に括り付けられちょった。(痛みで動かす気にもなれんかったが・・・)



 声を出そうとしたんじゃが、顎も口も痛ぉて、声を出せんかった。・・・顔面を強打した時の衝撃で、上顎の歯が8本折れちょった。



 動く右手を弄ったら、呼び出しブザーに触れ、押すと看護婦さん(当時は看護師とは呼ばんかった)が受け答えをされたが、返事を返す事が出来んかった。



 すぐに看護婦さんが部屋に来て儂を覗き込み、何か言いよられたんじゃが、よぉ覚えちょらん・・・続いて当直の医師が来られて、脈を取ったり、眼の瞳孔の様子とか、計器の数値とか見よられた様子じゃったが、如何せん首が動かせんけぇ、右目の動きだけ見える範囲でしか確認は出来んかった。
 

 「いやぁ良かった・・・もう2、3日しても意識が回復せんかったら、危ないとこやったなぁ。」と、医師が語った事を、よぉ憶えちょるんじゃった。
 

 『どぉ危なかったんじゃろぉ?』・・・未だに謎じゃった。 



 儂が話せず、受け答えが出来んでも、看護婦さんが色々と、運ばれて来てからの経緯を語り掛け乍ら作業をされたけぇ、凡その事が理解で来た。

 『しょうがないのぉ・・・』と、思いながらも、耐え難い違和感がある事に気付いたんじゃった。



 尿道である。



 尿道に管が通して在る様じゃった・・・気に成りだすと、耐え難い違和感じゃった。


 余りの事に、意を決して発したら声が出た・・・ 


「すいません・・・オシッコの所(流石にペ〇スとは言えんかった)が痛いんですが、外してください。」と、言うと 


「あぁ、そぉなんや・・・じゃぁ、主治医の先生に聞いて来ますから、辛抱しとってな。」と、優しく言って出て行かれた。 



 儂が入っとった集中治療室は、ナースステーションの隣に在り、暫くすると戻って来られて、


「主治医の先生から許可が出ましたから・・・」と、言って、管を外してくれた。



 若干の恥ずかしさは在ったが、致し方ない・・・それに、かなり年配の方(母よりも年上の50歳くらいじゃったろぉか・・・)じゃったけぇ、恥ずかしさも半減したんじゃった。


 「もし、尿意が来たら、ブザーを押してくださいね。」と、仰って部屋を出て行かれた。



 儂はホッとして、いつの間にか深い眠りに入っちょった。



 どのくらい眠ったか分らんが目が覚めた。



 目が覚めると、途端に尿意をもよおした・・・慌ててブザーのボタンを押す・・・



「どぉされましたぁ♪」と、言いながら看護婦さんが入って来た・・・声が若い⁈ 



「大丈夫ですか?」と言いながら覗き込んで来た顔が若い・・・どぉ見ても十代・・・『何で⁈・・・』



 呆気に執られて「オッ・おっ・・・」と、言いかけよったら察して呉れた様で・・・ 


「あぁ、御小水ですね・・・すぐに準備しますから、少しお待ちくださいね。」と、言いながら使い捨て手袋をはめて、ベットの下辺りから尿瓶を取り出すと、儂の寝間着をまくり上げると、儂のムスコさんを摘まんで尿瓶をあてがい、「はい♪、いいですよ。力まずに出してくださいね~ぇ♬」と、優しく言ぅたんじゃった。


 そぉ言われても・・・出るモンじゃぁないんよ、コレが・・・恥ずかしいのなんの・・・まぁ、儂の一生の内で、一番恥ずかしい気持ちに成ったんじゃった。



 あの時、儂は22歳・・・童貞じゃった訳じゃぁ無いが、看護婦さんとは言え、流石に高校生くらいの知らん女の子に、ムスコさんを摘ままれて小便をするやなんかは、恥ずかしゅぅて恥ずかしゅぅて、何処かへ逃げ出したい気持ちじゃったが、寝返りさえ打てん身体じゃった。



 3回ほど深呼吸をしたらチョロチョロと出始めたんじゃが、勢いの無い事が・・・



 訳ゃぁ分らん内にし終わって、「また、したくなったら、呼んでくださいね♪」と、言って出て行った。



 暫く放心状態・・・その内に、主治医の先生とかが来られて遽しくなり、儂の事故の知らせを聞いて、京都に駆け付けちょった母(事故の翌日、父母が見舞いに来たんじゃが、意識が戻らんけぇ、翌日に父は広島に帰り、母だけが残って大阪の伯母さんの所に泊まり込んで、面会時間の間中、毎日見舞いに来て呉れちょったらしい)が泣きながら入って来て、儂が事故におぉてからの話を、大阪の伯母さんと喋り捲りよって、母の話から、今日が5月の29日の日曜日で、儂は一週間、意識不明になっちょったらしい事が分かったんじゃった。


 「有難う・・・」の他に、2、3言、返事をしたんじゃが・・・嬉しくも在り、申し訳なくも在り、有難くも在ったんじゃが、こっちは思う様に喋れんし、如何せん身動き出来んし、あっちこっちが痛いし、しんどいし、申し訳ないんじゃが、寝たふりをしてスルーしたんじゃった。



 母は、儂が死にそうもない事を確認すると安心した様子で、完全看護の病院じゃったけぇ、する事も無く、大阪の伯母さんと京都観光に出掛けたんじゃった。


 それから三日ほど、「大阪の伯母さんと朝方現れては何処かへ出掛け、夕方に様子を見に来ては大阪の伯母さんの所へ帰る」を繰り返し、広島へ帰って行ったんじゃった。



 目覚めてから一週間ほどすると、早くも入院生活に飽きが来た・・・。



 そりゃぁそぉじゃろぉ・・・頭は鉄枠で固定されたまま・・・左手と左足は動かせず、寝返りさえうてず、一日中、天井を見つめて物思いに耽る・・・面会謝絶で、誰も訪れる者も無く、何も食べる事も出来ず、点滴を打ち続ける。



 日に一回、主治医の先生の回診が在って、時々、看護婦さんが点滴を替えに来る。



 唯一、自分の意志で出来る事は、ボタンを押して、看護婦さんに小便をさせて貰う事だけ・・・。



 偉いモンで、慣れると羞恥心が薄れて来る・・・ 人とコミュニケーションをとれる唯一の機会じゃったけぇ、若干、嬉しくさえ思えて来ちょったんじゃった。



 
「She's So Unusual」より  此方より寸借 



 そして、次の日曜日(6月5日)になったんじゃった。



 その日の朝、いつもの様に尿意をもよおしてボタンを押した。



 すると、あの若い看護婦さんがやって来て、前回と同じ様に小便をとってくれた。



 慣れたとは言え、やはり恥ずかしかった。



 気になっちょったけぇ、「あの~ぉ、年は幾つですか?」と、聞いてみた・・・口の痛みも随分と好くなってきて、喋り易くもなっちょった。



 年は18歳で、その年に高校を卒業して、病院の隣にある看護学校へ入学したらしい・・・で、看護学校では、日曜日に実習を兼ねて、病院で勤務するらしぃんじゃった。


 『あぁ、それでか・・・』と、思いよったら、儂が入院した翌日の日曜日、死に掛けの儂を見て、どうか元気に成ります様に・・・』と、祈って呉れたらしぃ。


 それで、先週の日曜日に勤務したら、意識が回復していたので、とても嬉しかったのだと話して呉れたんじゃった。 


「ほぉじゃったん。ありがとう。・・・じゃが、退屈で死にそうなんよ・・・何も出来んけぇねぇ・・・」と、言うと 


「仕方無いんよねぇ・・・死なへんかっただけでも有難いんやから・・・今は安静にしててくださいね。」と、優しゅう言ぅてくれて出て行ったんじゃった。 



 翌日の月曜日(6月6日)、午前の診察を終えると、午後から、儂は一般の個室に移され、面会謝絶が解けた。



 頭を固定していた鉄枠の器具が外されて、替わりにコルセットを首に巻かれたんじゃった。



 未だ、絶対安静と言われちょったが、何か知らんホッとした。・・・とは言え、身動きとれん状況は同じじゃったが・・・。  



 その日の夕方、儂を見まいに来てくれた人が在った。


   
 あの、若い看護婦さんじゃった・・・Mさんと言った。 


『何じゃろぉ・・・』と、思いよったら、 


「良かったなぁ、個室に移れて・・・良ぉ成った証拠やし・・・あのな、退屈やって言ぅてはったやんか。それでな、これ、持って来てあげたんよ。」と、言いながら、カセットウォークマンを差し出して 


「これな、もぉ使ぉてへんし、お見舞いの花の代わりにあげるわ。」と、言いながら、ヘッドホンを儂の耳に装着して、スイッチを入れてくれた。 


「此れやったら、片手でも出来るやろ。」と、言った。



 儂は、彼女の上から目線の溜口が、チョッと鼻に付いちょったんじゃが、関西の女の子と交際した事が無かったけぇ、『関西人はこんなモン』と、勝手に思ぉちょったし、如何せん、『下の御世話までして頂く看護婦さんじゃけぇ、上から目線の口調になるんも当然なんかも知れん』と、勝手に思ぉちょったんじゃった。

 
 それに、儂の事を気に掛けて、態々ウォークマンを持って来てくれて、凄い嬉しかったんじゃった。



 広島とも縁の深い村下孝蔵さん(儂は、その頃、村下孝蔵さんは、広島の出身じゃと思ぉちょったが、実は熊本県の出身)の、「初恋」が流れてきた。 


村下孝蔵さんの『初恋』じゃねぇ・・・村下さん、好きなん?・・・僕、広島じゃけぇ、高校の頃から、村下さんのライブに何遍も行ったよ・・・この前できた村下さんの喫茶店へも行ったんじゃ・・・開店した時じゃったけぇ、村下さんも来られちょって、挨拶してサインも貰ぉたんじゃ♬」と、言ぅたら、彼女の表情がパッと華やいで、暫くは、村下さんの話題で盛り上がったんじゃった。


 じゃが、それも束の間・・・ドアをノックする音がしたので、彼女は話を途中で止めて、ススッとベットから離れた。


 そして、儂の友人5~6人が、ソロソロと入って来て


 「ハッシー、生きとんか?・・・」

 「よぉ生きとったなぁ・・・酷い事故やったし・・・」

 「悲惨な格好やなぁ・・・何や知らん、こっち迄、痛ぉなるわ。」と、儂のベットを取り囲みながら、好き勝手に言いよる内に、スススッと、病室から出て行ったみたいじゃった。



 「ハッシー、さっきの子、彼女⁈・・・可愛い子やんか!」と、目敏い同大の橋本が聞いたけぇ、


 「違わぁや・・・彼女が来とるんじゃったら、あんた等が来ん様に面会謝絶の札を貼っちょくわ・・・それより、病院じゃけぇ、静かにしちょかんと、婦長さんに叱られるで!」と、言うと、 

「そやなぁ・・・ハッシーは、色の黒い子、苦手やもんな。・・・親しぃなったら、俺に紹介してや。」と、笑いもって言ぅたんじゃった。

 Mさんは、薬師丸ひろ子似の、可愛い女性じゃったが、東南アジア系の小麦色の健康的な肌色じゃった。


 儂は日頃から、ダイアナロスでもノーサンキュー」と言って、「女性は色白じゃぁないと・・・」と、女性の好みを主張しよったんじゃが、日本人の女性と交際した経験は無かったんじゃった。


「ハッシー、エレナさんって、どぉしとるか知ってる?」と、同大の橋本が唐突に聞いてきたけぇ、 


「知らんよぉ・・・去年、国へ帰ってから、何も連絡が無いけぇ・・・わりゃぁ、死に掛けの俺の傷に、トンガラシを擂り込む様な事を言ぃんさんなや・・・此れ以上、俺を傷付けんちょって・・・こらえて・・・。」と、笑いもって言ぅたんじゃった。


 一頻り笑ぉたら、事故の時、皆で駆けつけて呉れた事や、面会謝絶で会えんかった事や、広島から駆け付けて来た父が、病院に集まっていた皆に、「息子は、これぐらいの事じゃぁ死ぬ様な男じゃぁ在りませんけぇ、大丈夫ですけぇ。」と、言って、「よぉ来てくれました。息子が日頃から親しゅぅして戴いとるんでしょう。息子の事は、お医者さんに任して、ちょうど昼時じゃけぇ、儂が御馳走さして貰いますけぇ、皆で食事に行きましょう。」と、言って、高級な料理屋で、しこたま御馳走して呉れたので、『広島の漁師の親父さんは豪気で肝が据わっている』と、皆が驚いた事や、父が帰広してからも、誰か彼かが母や大阪の伯母と一緒にいて儂の容態を伝え聞いて居た事や、毎日の様に御馳走して貰ったり、母が借りたレンタカーを運転して、京都の観光地の案内をしたりしていた事や、母が広島に帰る時に、皆で新幹線のホームまで行って見送りをした事などを話してくれたんじゃった。



 それからは、毎日の様に、誰か彼かが見舞いに来て呉れた。



 アルバイト先のオーナーや従業員の方々、ボランティア活動の仲間達、古武術や空手の先生や先輩方や仲間達、春に卒業したばかりじゃった柔道整復師夜間学校の先生方やクラスメート、入部しちょったワンダーフォーゲル部の連中や、サイクリングやバイクのツーリングクラブの先輩や仲間達etc.・・・


 父と母は、月に一度くらい、親戚の人達を伴って、京都観光を兼ねて、見舞いに来て呉れた。



 入院して一番感じた事は、「自分が、どれだけ多くの人々によって支えられているか」と、言う事じゃった。



 何気なく健康に過ごして居たら、これほど強く感じる事は出来んかったじゃろぉ・・・。



 入院から一ヶ月余り経って、歯の治療が済み、普通の食事が出来る様に成ると、儂の容態はメキメキ回復した。


 車椅子を使ぉて、自分一人でトイレに行ける様になった。



 此れがどれだけ有り難い事か、健康で過ごしてきた人には感じる事は出来んと思う。


 初めて、自分一人で用便が出来た時、ジワッと涙が出た程じゃった。



 7月に入った頃には、儂は置き上がって食事をしたり、車椅子で病院内を散歩したり出来るまでに回復した。



 そんな或る日、滋賀の橋本が、他の友人と共に、儂の部屋にテレビの様な機械を持ち込んで来た。



 まだ発売される前の、NECパーソナル日本語ワードプロセッサPWP-100じゃった。



 何処でどう入手したんかは知らんが、噂には聞いちょったが凄い機械で、観るのは初めてじゃった。 


「ハッシー、凄いやろ。これやったら、片手でも、どんどん文字が書けるで・・・頼むわ、俺らの卒業は、お前の頑張りに掛かっとんのや。頼むで‼」と、真顔で言った。


 何の事やら理解できんかったんじゃが、橋本の話を要約すると、儂は、此れと言った特技の無い人間じゃが、唯一、文章を上手く纏める能力だけは人一倍長けていて、是迄も、何人かの先輩たちの卒論を書いた経験が在ったんじゃった。



 学生にとって大切な、前期試験の真っ最中・・・試験の勉強も有るが、就職活動もせんといけんし、卒論も書かんといけん。



 文章を書く事を苦にせん人間にとっては、レポート用紙に、50枚、100枚くらいを書く事など造作も無い事じゃが、苦手な人間にとっては、大変な難題らしい。



 特に、卒業論文は、卒業単位の必須科目であり、大学での学業の集大成でも在るから、欠かす事は出来ん存在じゃった。


 卒業論文は、卒業必須科目の専門ゼミを担当する教授から出される課題であり、儂の大学の経済学部では、必ず提出せんと卒業できん決まりになっちょった。



 儂は、3回生の時までに、卒業に必要な各種の単位を取得しちょった上に、中学や高校の社会科の教員免許を取得する為の教職課程の単位も、ほぼ取得(教育実習は事故の為キャンセルになった)しちょったんじゃが、出席を必須とする専門ゼミには出れんけぇ、卒論を書いて提出したとしても、儂の留年は確定しちょったんじゃった。



 で、そこに目を付けた滋賀の橋本や友人達が、最新型のワープロを使って儂に卒論を書かせて、プリントアウトした卒論をレポート用紙に各自が転記(当時は手書きが当然の事じゃった)して、卒論をクリアする事を考えたらしい。


 儂は、暇を持て余しちょったし、ワープロにも興味が在ったし、他ならぬ友人の頼みじゃけぇ、快く引き受けたんじゃった。(前にも言ったが、「自分が、どれだけ多くの人々によって支えられているか」と、言う事を強く感じちょったけぇ、たぶん、事故に遭ぉとらんかったら引き受けとらんかったと思う)



 今のPCのワードに比べりゃぁ、笑えるくらいの速度と能力じゃったが、当時としては画期的で、はじめは使い方に戸惑ったんじゃが、慣れて来ると早い早い・・・参考文献と数冊の雑誌を拾い読みして、日本中央競馬会が日本の各種産業に及ぼす影響のマクロ経済的展望」と言う卒業論文を5日で書き上げた。


 この結果に驚き、喜んだ滋賀の橋本達は、次から次へと参考文献や資料を持ち込んで、儂に卒業論文を書かせたんじゃった。



 当時は、ワープロは珍しい存在で、主治医でも無い医師までが見に来られていたが、いつも難しい書籍を読みながらワープロに向かっている儂の事を、物凄い勉強家であると思っておられた様じゃった。(死に掛けを助けてやった学生が、病室で、こんな不正行為をしちょったとは思いもよらんかったじゃろぉ)


 他にも、「パチンコ機種フィーバーの登場によるパチンコ業界の変貌と公営ギャンブルのパワーバランスの攻防が織りなす経済効果」だの、「関東と関西における麻雀のルールの違いによる関東と関西の経済機構の相違の考察」など、ギャンブル好きの友人が多かった所為で、ギャンブルを題材にした長い題名の卒論ばかりじゃった。


 結局、10人分余りの卒論を書き上げたじゃろぅか・・・お陰で、儂は、経済の勉強や見識が深まった気がする。



 そのお陰も在り、友人達は、上手く卒業でき、年は1983年・・・バブル景気が沸騰する前夜の就職は好調で、各々、希望する職につけた様じゃった。


 滋賀の橋本と言やぁ、発売されたばかりの任天堂のファミコンを病院に持って来てくれたんも橋本じゃったねぇ・・・。


 片手じゃったけぇ、プレーが難しかったんじゃが、初期のマリオブラザーズとかドンキーコングのゲームを、暇な時にしよったねぇ・・・スーパーマリオが流行りだした時に、甥坊にあげたけど・・・。





 事故で入院した事で、儂を舞い上がらせる様な、嬉しい出来事があった。(事故の為に、多くのモノを失ぉたし、人生を大きく転換されたんじゃが、得たモノも多かったと思う)



 以前のブログ記事でも書いたんじゃが、学生時代、ボランティア活動で知り合った、儂の憧れのマドンナで「高根の花の存在」じゃった、亡くなった妻が、儂の見舞いに来て呉れた事じゃった。


 別に、態々儂の為に見舞って呉れた訳じゃ無ぉて、儂の友人である神戸の橋本が、彼女の親友であるY美さんと交際(二人は卒業後、暫くして結婚した)しよって、神戸の橋本に連れられて来たY美さんも見舞いに行くと言うので、ボランティア活動で顔見知りじゃった儂の見舞いに、義理で来てくれただけじゃった。


 それと、神戸の橋本は、儂が彼女に、秘かに特別な思いを抱いちょる事を知っちょったもんで、儂が更に元気を出して呉れる様にと、彼女が見舞いに一緒に来て呉れそうなタイミングを見計らって、Y美さんを見舞いに誘ってくれたらしいんじゃった。(友の有り難味をひしひしと感じた出来事じゃった)


 もう11月の始め頃になっちょって、儂は、退院に向けて、松葉杖を使ぉて歩く訓練を始めちょった頃じゃった。



 事故の当初じゃったら、寝た切りじゃったし、顔が腫れ上がっちょって、顔の半分は赤紫色に変色しちょったし、頭は包帯でグルグル巻き、左眼にはデッカイ眼帯をしちょったし、とても女性に見せられる状態じゃなかった・・・況してや憧れのマドンナで「高根の花の存在」じゃった彼女には、絶対に見られとぉない姿じゃった。


 神戸の橋本は、その辺りの事も考慮して、見舞いに連れて来てくれたらしい。



 その日の夕方、橋本が、Y美さんを連れて二人で見舞いに来てくれた。



 橋本が、Y美さんを連れて二人で見舞いに来てくれた事は何度か在ったけぇ、驚きもせんかったんじゃが、二人が入って来る後ろから、「すんません・・・お邪魔しますぅ・・・土師はん、大変やったねぇ・・・。」と、オカリナの様な余韻の有る声がした。


 儂は、一瞬で彼女だと分かり、鼓動が高鳴るんを感じちょった。


 橋本とY美さんが、ニコニコしながら語り掛けてくれよったんじゃが、何を話しよったんか記憶に無い。 




「・・・そしたら昨日、Y美が橋本さんと土師はんの見舞いに明日行くんやけど、一緒に行ってあげよしって、誘ぉてくれたんで、来らしてもろたんですぅ。」と、オカリナの様な余韻の有る優しい声で話してくれたんじゃった。  

「Y美から、土師はんは、病室で、いつもウォークマンを聴いてはるって教えてもろぉてましたんで、うちが録音したモンですけど、聴いてくださいね。」と、素敵に染み入る声で話しかけながら、封筒に入れたカセットテープを手渡してくれたんじゃった。



 その白くしなやかな指先が、輝いて見える様で、眩しく感じ、眩暈がした程じゃった。



 儂は受け取ると、余りの感激の為に、硬直して仕舞ぉちょったんじゃが、彼女は、怪我の為に、上手く出来ないのだと勘違いしたみたいで、 


「あっ、気が利かんで御免なさいね。うちが遣りますわ♪」と言いながら、封筒からカセットテープを取り出して、儂の枕元に在ったウォークマンを手に取ると、入って居たカセットテープを封筒に入れ替えてから、自分が持って来たカセットテープをセットした。 


「土師はん、今、聴かはりますぅ?」と、聞いたけぇ、『ウン』と頷くと、ヘッドホンを儂の耳につけてくれて、スイッチを入れてくれたんじゃった。 

「ボリューム、これぐらいで宜しぃ?」と、ニコッとしながら聞いたけぇ、『ウン、ウン』と言う風に頷いたんじゃった。
 

 聞き慣れない曲が流れて来た・・・「ベティーブープ?」と聞いたら 


「ベティーって(・・? ・・・誰ですぅ?、それ・・・シンディ・ローパーなんよ。・・・今、凄い人気なんよ・・・土師はんは、入院してはるから知らへんのやね♬」と、オカリナのような余韻の有る声で、笑いながら言った。

 彼女が、カセットの最初に録音しちょった曲は、シンディーの『He's So Unusual』じゃったんじゃが、こんな感じの歌い方をするんは、儂の知識の中じゃと「ベティ・ブープ」しか思い当たらんかったんじゃった。 


「そぉなんじゃ・・・早ぉ退院せんと、浦島太郎に成って仕舞うね。」と、言ぅたら 


「そぉそぉ、土師さんの御実家って、広島で漁業を営んで居られるんですってね。ボランティア活動の仲間の人等が、小柄なのに豪快なお父さんやったって、褒めてはりましたわ。・・・うちも御逢いしたかったわ。」と、素敵に眩しい笑顔でニコニコしながら話してくれた。



 たぶん、彼女と儂の、この会話の間に、橋本とY美さんが、彼是と会話に入っちょった筈なんじゃが、全く記憶に無いんじゃった。



 将に儂は、彼女との二人だけの世界に、どっぷりと浸っちょったんじゃった。



 橋本とY美さんと彼女は、儂の夕食が済むまで居ってくれて、彼女が食器を片付けてくれたんじゃった。



 トレーに乗せた食器を持って、彼女が部屋を出て行くんを目で追いよったら、橋本が小さくガッツポーズをしながら、見た事も無い様なドヤ顔をしながら儂に笑い掛けたんじゃった。

 不思議と、そのドヤ顔だけは、印象深く憶えちょるんじゃった。 



 帰り際に、「土師はん、退院して元気にならはったら、また、美味しいカキ氷を食べさせてくださいね。」と、素敵過ぎる満面の笑顔で励ましてくれたんじゃった。 

「僕は、来年は5回生として勉強する事が決まったけぇ、小山さんがビックリするぐらい美味しいカキ氷を作るけぇ、楽しみにしちょってね。」と、精一杯の元気を出して彼女を見送ったんじゃった。 



 その日から、儂は彼女から贈られたシンディの曲を聴きながら、ファイト百倍、あれほど嫌だった辛いリハビリや歩行訓練も率先して行い、目覚ましい勢いで歩ける様になって行き、主治医の予定じゃと年末頃と予定されちょったんじゃが、その年の11月23日(勤労感謝の日)に退院できたんじゃった。


 同じ、以前のブログ記事の中で、『きっと、他にも、彼女の思い出は有った筈なのですが、学生時代の彼女を思う時、あの時の光景しか、思い出す事が出来ないのでした。』と、書いちょったんじゃけど、忘れ難い大切な想い出って、結構有るもんじゃ・・・。



 後日談に成るんじゃが、儂にウォークマンを呉れた、看護婦のMさんは、後に儂の紹介で同大の橋本と交際する処と成り、彼の卒業後、間もなく結婚したんじゃった。


 今は、Hさんと成ったMさんじゃが、数年に一度は顔を合わす機会が在り、その度に、『あの時、儂のムスコさんを観られて摘ままれたけぇのぉ・・・』と、言う思いが在り、お互いにオジサン・オバサンとなった今でも、未だに目を合わして挨拶する事が出来ん儘なんじゃった。



 じゃが、あの時、儂がトレーラーと衝突せんかったら、・・・或いは、あの事故で死んじょったら、・・・あの事故によって生まれた、様々な『縁・えにし』は、生まれる事は無かったじゃろぉ・・・。



 人の『縁』とは、不可思議で、人智など到底及ばぬ、『神のみぞ知る存在』なんじゃと、つくづく思うんじゃった。



 今日、シンディーの65歳の誕生日に、シンディーの「タイムアフタータイム」を聴きながら、過ぎて行った時と思い出の数々を辿りよったんじゃった。・・・アジアの片隅より